【BRM920 ええじゃないか伊勢夫婦岩1000】その9 DAY4 熱海峠(900km)
2014年9月23日(火曜日)AM2:25 静岡県函南町
スタートから67時間25分 908km地点 制限時間、残り7時間35分。
真夜中の道をたったひとりで走れるか?
「ここから熱海峠のピークまで、それほどきつい坂はない。だらだらとした登りだよ」
僕達の先頭を引っ張っているすーさんはそう言って、最終チェックポイントのコンビニを出発した。
フィニッシュまで残り100kmを切って、制限時間はあと7時間40分程度。ここからコース後半最大の難所、十国峠が待ち構えている。およそ600mを、10kmぐらいかけてダラダラと登っていくこの峠は、走る前からいいイメージの話を聞かなかった。とにかく、こんな900km地点に峠を設ける主催クラブの意地の悪さに対して、僕は笑うことしか出来なかった。
でも、これを越えれば熱海だ。神奈川県はすぐそこにあり、後はほとんど勝手知ったる道ばかりだ。モチベーションが少し上がった。
出発して間もなく、登り坂が僕達の前に立ちはだかった。まだ峠の登りには入っていないだろう?なんでこんなにきついんだ。あまりにも突然のことできつかったので、ニコニコ笑ってしまった。完全に壊れてきているのが、自分でもよくわかる。
「十国峠」の案内看板が見え、疲れた目で確認する。矢印通りに進んでいく。
「頑張り過ぎると疲れて寝ちゃうから、寝ない程度のペースで頑張りましょう」とすーさんは提案した。僕も池田さんも賛成で、このまま寝ないでゴールを目指していくプランで走ることになった。
十国峠の登りが始まると、それまで寒かった身体が少しずつ暖かくなるのがわかった。キツい峠ではないが、どこまで気持ちが持ちこたえることができるのかが心配ではある。人気は更に無くなり、住宅は道路脇にあって人がいるはずなのに、全く気配がしない。昔は人がいたのだろうか、入り口が堅そうな門で閉ざされていたところもあり、ちょっとしたお化け屋敷にいるような気分でワクワクとドキドキが交錯する。
そんなところにいても、すーさんと池田さんの2人は相変わらず元気だった。これまで走った過去のブルベの話題で盛り上がっていた。
「あの○○を走るコースはよく凶悪だとかいわれているけど、実はよく考えられているんだ」とすーさんが言えば、
「そうなんですよね。景色のいいところをピックアップしているわけですからね。別にいじめるためじゃないんですよ。」*1と池田さんが優しげのある声で答える。
2人の会話が面白いのでじっくりと聞いていると
「こーへーくん、いつか一緒にそこ出てみない?」と突然池田さんに振られた。
僕はそのコースを知っていたが、とても出来ないという言葉を周囲から聞いていた。
「ええ、でも…」と僕がためらいをみせていると、すーさんがもう一言言った。
「こーへーくん、やらないでそんなことを言う前に、やってみてからどんなものか味わってみないかい?うわさ話ばかりに惑わされてやらないよりも、実際やってみてどんなものかを知ること、それが君にとって大事なことだと思うよ。」
どんな表情ですーさんは僕に話したのかは、暗闇なのでわからない。けれど、その言葉から自信を感じた。自分がそこに行くことや、やってみることの大切さ。21歳の僕にとってみれば、まだまだ知らないことばかりの連続だ。そんな年齢だからこそ、すーさんと池田さんはそんなことを伝えてくれたのかもしれない。
その言葉を、最近改めて実感する機会が増えた。
「やれる」ことを「やらない」ということは、実はとてももったいない事かもしれないと。
峠を登り始めて2kmほど走ると、それまであった街灯の道しるべがなくなり、自分の自転車のライトだけが頼りとなる。古ぼけた消費者金融のホーロー看板や、今はおそらくない商品の案内看板がうっすらと見える。そういう看板には芸能人の顔が描かれていることもあり、暗闇に突然人の顔が映し出されてビックリしてしまうようなことが2回ぐらいあった。
僕の自転車はここまで順調に動いてくれている。チェーン、変速、ペダル、ライト、スプロケット、これといった問題はここまでシフトワイヤーのトラブルひとつくらいだ。
サイコンのメーターもイカれることもなく、信頼を置くことができている。速度は相わからず1ケタを指しているが、それで問題ない。きちっと登って後は降りればいい、この時はそういうふうに考えていた。
僕らの後ろから、1台の自転車が上がってくるのが見えた。反射ベストを着ている。ランドヌールだ。軽快なステップとはいえず、少しフラフラしている、僕らを追い抜いていく。どうやら先ほどのコンビニでちょっと会話をしたライダーの方だということがわかった。これまでのダメージで首に負荷がかかっているのだろうか、少しでも軽くするために白い布のようなもので上に吊り上げているのがよくわかった。そこまでして、走ろうとする覚悟に驚きを感じる。
池田さんがよく知っている方らしく、しばらく会話をしていた。その女性は先にいってしまい、僕らは再び黙々と登り続ける。
それにしても、少しずつ変な汗がでるようになってきた。恐怖、とかではないけれど、圧迫されるような気配を感じる。ペースが落ちてきて、池田さんから少しずつ遅れるようになってきた。眠気なのか、なんなのか。すーさんも眠くなってきたのか、僕と同じくらいのペースで進んでいる。
「ちょっと心配なので、先にいきます。頂上で合流しましょう」と池田さんは言い残して、先へ進んだ。心配しているのは、先ほどの女性ライダーのことだろう。「頂上で合流しましょう」という言葉には、信頼が含まれている。池田さんのライトはやがて見えなくなった。
すーさんのペースは、先ほどよりも低下しているように見えた。夜に「普段寝なくても大丈夫なんだけど、眠くなると一気にダメになっちゃうんだよ」といつか言っていたのを思い出した。みんな、限界に近づいているんだ。
野生動物が出てきてもおかしくない雰囲気。おとといの蛭川峠の下りで小動物を轢きそうになったからか、なにかそういうものに対しての恐怖を感じていた。脚が止まりそうになる。誰かがいないと、僕は真夜中を一人で走ることができないビビリなのだとこの時はっきりと自覚した。
ついにすーさんの脚が止まった。僕も立ち止まり、すーさんの到着を待つ。自転車が蛇行しているのが、ライトのふらつき具合でわかる。すーさんは僕の脇で止まり、
「僕はここで一旦寝るから、こーへー君、先行って。」と告げた。
ここですーさんが寝てしまったら、タイムアウトの心配がある。ここまで一緒に走ってきた仲間だ。僕は置いていくことなんてできない。
「なんとかなる。先に池田さんと合流してくれ」
すーさんはそう言って、道路脇に倒れこみ、そのまま眠り始めた。
この時点で、僕は制限時間内で間に合うペースよりだいぶ遅れていた。
おおよそ1時間ぐらいといったところか。いまから快調に飛ばしてなんとか間に合うかどうか程度だ。
ここで覚悟を振り絞って、前に行くことができるかどうか。
何も見えない闇の向こうへ突っ込んでいける覚悟をどうか。
僕はペダルを回し始めていた。
カラダは震えるまま。何が飛び出してくるのか。何が見えるのだろうか。
風が吹き上げて、木々のひとつひとつからカサカサといった音が不安を増幅させる。
崖の下を見ても、明かりひとつなにも見えない。携帯の電波も圏外になり、僕が正確に情報を得ることができる方法は、サイコンの速度表示と距離を表す500m刻みの標識だけだ。
それ以外は、驚くほどなにもない。それしか知ることができない。なんてピュアな状態なのだろう。
怖い。帰りたい。逃げたい。
だけれども、心のどこかでこの状況を楽しんでいた自分もいた。
これを乗り切れば、新しい何かを切り開くことができるのかもしれないと考えている僕がいる。自分でも気持ち悪いくらいに。
残り数キロのところで、誰もいないはずの小屋からラジオの音が聞こえてきた。
そこは家が点在しているエリアから、2km以上離れている。廃倉庫のような場所のはずなのに、大音量で聞こえてくる。幻聴なのか、現実なのか。究極の恐怖。動物よりも、自然よりも、人間がやることが一番怖いのかもしれない。あとで聞いた話だと、そこに人が住んでいるらしいのだ。
峠のピークが近づいていた。「頂上まであと1km」の標識を確認する。今僕をここまで頑張らせているものが何なのか、よくわからない。
「幻覚か…」前走者のテールランプが見えた時、僕はそう思った。
前にも同じようなことをブルベで経験したことがあったからだ。だいたい道路工事用の赤色灯だったりするのだけれども、それとの距離が近づくにつれ、「幻覚じゃないな」と初めて思えるようになった。
近づいて声をかけてみると、8時スタートの参加者だった。
「この先に僕と同じジャージを着ていた人はいませんか?」と尋ねてみると
「ああ、いましたよ。今なら多分追いつきます。がんばってください」
そう言って、後方へ沈んでいった。その言葉を信じよう。
一体何度同じようなカーブを曲がったのだろうか。だけど、カーブミラーが見えた時、頂上が近づいていることを確信した。峠のピークには必ずといっていいほどカーブミラーが設置されているからだ。その瞬間、ダンシングでとにかく踏む気持ちが生まれた。グイグイと進める。息が切れる。寒いのに、汗が出る。
頂上が見えた。明かりが見える。力を振り絞る。陸にいるのに、溺れそうな感じだ。
その明かりも、幻覚ではなかった。池田さんその人だった。
「あれ、すーさんはどうしました?」
到着するやいなや、池田さんは心配そうな顔で聞いてきた。
「途中で仮眠するって言って、ピークの数キロ手前で横になりました。」
僕も不安そうな表情をしていた。
「待っててとか言われたの?」
「いや、そういうことはいわれてないです。」
「イケさんはどうするつもりですか?」
「僕はすーさんを待ちます。心配なので。」
そう言われた時、僕はどうすればいいのかわからなかった。
仲間を待っているのが正解なのか、それとも自分だけ先に行ったほうがいいのか。
葛藤していた。
僕は2人より1時間先にスタートをしている。だから、制限時間も一時間ずれる。
僕のリミットは午前10時だけれども、2人は午前11時に横浜に到着すればいい。
それなら先に行った方がいいと思うのが当たり前なのかもしれない。
だけれども、ここまでいったいどのくらいこの2人に助けてもらっただろうか。
そう考えると、なにか裏切るような感じがしてしょうがなかった。
「僕はどうすればいいんでしょうか?」
思わず池田さんにそう聞いてしまった。
「さあ。僕はどうしようもできません。ただ、行ってみてもいいんじゃないですか?確実にこーへー君のほうが私達より余裕ないんですし。」
「だけどそれって、これまで助けてくれたのに申し訳ない気がして…」
池田さんに不安な思いをぶちまけた。一息ついてから、池田さんはこう言った。
「そう思いましたか。そう思ったなら待つのもありですね。でも、それで間に合うんですか?ここまで走ってきたのに、ここで僕達を待っていて間に合わなかったとしても、私たちがそれに対して責任を負うことができませんよ。気持ちはわかります。あとはこーへー君、あなたが決めることです。」
その言葉の本当の意味を知ったのは、2ヶ月後に池田さんと食事をした帰りのことだった。
すーさんがやってくる気配は、ない。
大きく息を吸って、僕は決めた。
「ごめんなさい、行きます。ゴールで会いましょう。」
池田さんは「気をつけて!」の一言以外、何も言わなかった。
空は少し、青みがかってきていた。
心残りではあるものの、必ず横浜で会えるだろうという確信があったからこそ、別れることができた。
頂上の手前でパスした方がやってきて、僕はその人と一緒に降りることになった。
峠の下りはなぜかやたらキツく、斜度は14%以上を記録していた。全然止まらない。ブレーキを掛ける手が痛くなる。しかも、この山の下にはローリング族がいるみたいだ。ドリフトをしているのか、スキール音とエキゾーストノートが聞こえてくる。こんなところで、事故は起こしたくない。
やっぱり、笑うしかない。怒りなのか悲しみなのか、よくわからないけど感情がボロボロ出てくる。雨でも降ってたら転んでいただろうなあ。
峠を2kmほど降りるとMOA美術館があり、そこを左折して前を通るルートになっていた。これが非常にわかりにくく、ミスコース。このまま下まで行っても良かったらしいのだが、律儀にコースを守る。インナーローにしても脚がイカれそうになるほどキツい。乳酸が溜まってパンパンだ。
コースに復帰し、ここまでのお互いの健闘をたたえる。
「また、横浜で会いましょう。」何かの合言葉みたいだ。
僕は先行して、熱海のリゾート街へと降りていく。
夜が明けていく。
リゾートホテルのガラスが反射して、その色を取り戻す。言葉にできない自分の語彙力のなさが勿体無いくらい。
山の上から見ると、ジオラマを目の前にしているようだった。
1/1スケールの世界で、僕は今遊んでいる。
心惜しいが、それを楽しむことがてきるのは一瞬。
一瞬だからこそ、記憶に残るのかもしれない。
自転車のスピードを上げて、下り坂を快調に飛ばしていく。
すぐに麓へと辿り着き、残り僅かとなったこの旅も最終局面へと突入していく。
順調なのは、ここまでだった。
伊豆半島の東端、熱海から神奈川県までの距離は驚くほど近い。わずか数キロで到着してしまうのだから。海沿いの岸壁に作られた道を、僕は走る。犬の散歩をしている人たちに軽く手をふる。挨拶を返してくれる人もいた。
それにしても、スピードが先ほどから上がらない。風はそれほど吹いていない。今ちょっと登っているからなのか?登り終えて、空気抵抗を減らすポジションを取って頑張ってペダルを回す。けれども、スピードメーターは24km/hしか出ていないと告げている。
気づいたときにはもう遅かった。風のせいでもない。ましてや、坂のせいでもない。エネルギーをとっていない。ハンガーノックにかかっていた。だけどこの時は睡眠不足だと思っていて、どうしてこんな体調不良になったのか、全然理解できなかった。
時速は20km/hを切り、全身に力が入らない。猿轡で拘束されているみたいで、力を入れようと思っても入れることが出来ない。無常だった。視界も歪む。
くそ。一旦横になろう。そう判断し、道路脇の誰もいないくぼみのようなところに仰向けで倒れこんだ。倒れて目をつむっても、全く回復する気配がない。それどころが、カラダが蝕まれている感じがした。
だれが助けてくれる人がいないのか。たまらず、「力が入らない。助けて欲しい。」とツイートをした。これでわからなかったら、もうここまでだと。
すぐにそのツイートに対して返事がきた。同じ亀太郎のチームメート*2からだった。*3
「ハンガーノックじゃない?」
そう言われてやっと気づいた。
そういえば、背中のポケットに食べかけのブラックサンダーがあった。それを思い出して、急いで寝転んだ状態のまま食べる。カラダが糖を欲している。ものすごく甘く感じた。回復するのに、時間はかかるけど。ひとくち食べただけでも、なんとか動けるくらいにはなった。プラシーボでもなんでもいい。藁をもつかむ気分だ。
ここからもう一度がんばってみよう。
残りの距離は80km。制限時間は5時間を切っていた。
ヨレヨレの幸せを追いかけて、もう一度踏み直しだ。